会社名 | 株式会社サン・ボデー Sun Body Co., Ltd. |
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設立 | 1985年4月1日(昭和60年年4月1日) |
代表者 | 代表取締役社長 荒井克衛 |
資本金 | 30,000,000円 |
所在地 | 〒261-0002 千葉県千葉市美浜区新港227-3 |
代表電話番号 | 043(245)1011 |
Fax番号 | 043(244)0650 |
従業員数 | 20名(2022年4月1日現在) |
主要な事業内容 | トラック荷台部品となる木材の加工と販売、梱包用資材、外構材・デッキ用の木材加工と販売 |
荒井木材株式会社を創業
創業者 荒井衛氏は、徳島県出身。東京木場の建材店の番頭として働いた後、有限会社荒井商店に婿養子として迎えられ、翌年荒井木材株式会社を設立しました。大相撲を愛し、当時はまだ二所ノ関部屋に入門して間もない大鵬親方と交友を重ねました。妙見島製材を設立したあと、大鵬親方が取締役に就任した時期もありました。東京都江東区のライオンズクラブでのボランティア活動を通して、地域社会での奉仕活動に力を注ぎました。
1967年(昭和42年)、大鵬親方の結婚、媒酌人は、旧三井財閥系の北海道炭砿汽船(北炭)グループの総帥として昭和期の政財界に広い交友関係を持ち「政商」とも呼ばれた萩原吉太郎氏。荒井衛氏は、後援会幹事長でした。
創業者 荒井衛
1948年(昭和23年)2月に「米材」が輸入されたことが、戦後の木材輸入の始まりです。
当時は日本でも針葉樹の伐採が急速に拡大していった時期で、アメリカの木材価格では採算が取れませんでした。 一方、同じく1948年に始まったフィリピンからのラワン材の輸入は、1951年に45万M3、1952年55万M3、1953年には100万M3、1956年には200万M3を超え、1960年には457万M3にまで急伸しました。 1950年に始まった朝鮮戦争の特需も追い風でしたが、ラワン材(南洋材)の輸入は、原料(原木)を輸入し、製品である 製材(インチ板)と合板をアメリカに輸出して、外貨を獲得するための加工貿易として優遇され「加工輸出産業」として発展しました。
妙見島製材株式会社(東京都江戸川区東葛西3-17-1)製材・加工工場が完成。トラック荷台用木材の製材、加工を開始した。
1966年(昭和41年)日本自動車車体工業会(1970年に社団法人、1980年に一般社団法人)に入会した。当時の正会員は124社で、準会員は89社であった。現在は正会員と準会員の310社(2022年5月現在)で構成されている。
1968年(昭和43年) 妙見島製材は、木材の安定した品質管理を可能にするため、人工乾燥設備を建設。「いざなぎ景気」と言われた高度成長の中、順調に業績を伸ばした。
1963年(昭和38年)には、三菱ふそう小型トラック・キャンターが、1964年には中型トラックT620型が誕生した。1972年(昭和47年)、好調のキャンターが生産累計10万台を達成。1973年(昭和48年)には、大型トラックをFシリーズに一新した。
1973年10月、第4次中東戦争がはじまり、瞬く間にオイルショックが到来した。木材製品の価格は急騰したが、すでに景気に陰りが見えた中で、住宅建築はじめ木材の需要は伸びず、荷動きは停滞した。高度成長で膨張してきた輸入・生産体制は、供給過剰を招き、市況は悪化した。(1976年加藤車体の倒産)1979年の第2次オイルショックにより、多くの日本の製材・合板工場が倒産し、インドネシア・マレーシアの木材業界も大打撃を被った。
インドネシアは、1981年5月から段階的に丸太の輸出量を減少させ、1985年に丸太の全面輸出禁止とすることを決めた。一方で、インドネシア国内での製材工場・合板工場の建設と雇用の拡大を推進し、製品・加工品の輸出促進策を打ち出した。
左端が荒井克衛氏
妙見島製材株式会社 荒井衛会長(当時)は、2度のオイルショックにより国内外の経済が低迷し、木材産業が大きな打撃を受けた中、原材料の確保と品質安定化を図るため、現地工場での製品化と積極的な技術協力を行うことを決断した。
そして妙見島(東京都江戸川区)にあったトラックボデーの製造機械と人員を千葉工場に集約し、製造部門を独立させるための受け皿となる株式会社サン・ボデーを設立した。
初代社長は荒井克衛(荒井衛会長の長男)、1990年(平成2年)4月 2代目佐川啓介(荒井衛会長の甥)が就任した。
三菱商事と住友商事が輸入するアピトン(Keruing)などの未乾燥の製材を原盤として、妙見島製材株式会社が乾燥・加工する体制から、株式会社サン・ボデーが生産の主役となる方向に大きく舵を切った。
三菱商事スタッフとインドネシア・パガイ・プロジェクトを視察、左から3人目が荒井衛氏、右から2人目が荒井克衛氏。
三菱商事経由でインドネシア・パガイ島(スマトラ島のインド洋側にある島)からのアピトン(Keruing)KD・S4S材が入荷し、8月には、KD・S4Sに本実(T&G)加工を施した製品が入荷した。当時妙見島製材副社長であった荒井克衛、サン・ボデーの取締役生産部長であった荒井敦也(荒井衛会長の次男)はじめ何人かの社員が現地工場に駐在し、丸太の検品から製材、乾燥、加工までの技術指導を行い、日本の要求に見合う製品づくりを行った。4月、妙見島製材株式会社の二代目社長 加藤徳造に代わって、荒井克衛が三代目社長に就任した。
2,310平方メートルの建坪を持ち、約1,500M3の製品在庫が可能で、かつ雨天でも大型車への積込みが可能な大型製品倉庫の完成により、トラック荷台用の部材の製造・販売部門は、完全に株式会社サン・ボデーに移管された。
1992年(平成4年)4月、株式会社サン・ボデー取締役荒井敦也が常務取締役に昇任(1999年3月まで)。
1995年(平成7年)1月 阪神・淡路大震災
1996年 初午祭のスナップ
(妙見島にて)
アジア通貨危機がインドネシアに波及し、スハルト独裁政権への批判が一気に高まり、大統領は辞任に追い込まれた。その後もインドネシアの行政機能の大混乱は続いたために、パガイ・プロジェクトを続行することが困難となり、何社かの後継となる供給先を探している中で、マレーシアでの生産に軸足を移していった。
*****マレーシアのSarawak timber tycoonと言われ、著名な政治家、銀行家であり、インドネシアのパガイ・プロジェクトのリーダーであったTan Sri Datuk Amar Ling Beng Siew 林鹏祥 氏の訪日の際のスナップ、前列左から、荒井敦也氏、林鹏祥 氏、荒井克衛氏、後列は三菱商事社員。
マレーシア、ジョホール・バルの工場からのKD・S4S T&G製品が入荷。インドネシアでのパガイ・プロジェクトと同様に、技術指導を繰り返し、同等の品質を確保した。
4月 妙見島製材株式会社の三代目社長であった荒井克衛が株式会社サン・ボデーの3代目の社長に就任、5月には、荒井敦也が妙見島製材株式会社の4代目社長に就任した。
接着剤塗布から側圧ホットプレス(有効プレス加工幅1100㎜x6650mm)、そして幅の広い集成材に対応した6軸モルダーまで、自動化された一貫生産ラインを持つ、アカシア集成材工場が完成した。インドネシアなどで製紙原料用に植林されていたアカシア・マンギウムを製材して集成材に加工する設備が整った。
中国孟宗竹とポプラを使った複合合板に関する研究を開始。
中国CIMC社が製造し、サン・ボデーが最終加工を施した竹合板を床板に採用したトラックが、東京ビッグサイトでの「2009東京トラックショー」に展示された。
2012年(平成23年)CIMC社が製造した21㎜厚の竹集成材を、トラック荷台の床板として納入を開始した。
2011年3月11日 東日本大震災、千葉・新港地区は液状化現象が見られた場所もあったが、幸いサン・ボデーの社員にけが人はなく、工場の被害もほとんどなかった。
18mm厚の竹集成材がトラック床板に採用された。
2017年に始まったマレーシアのナジブ首相の汚職疑惑によって、2018年5月の総選挙で与党が敗退するに至った。1957年の独立以来、政権与党を担ってきた与党連合、国民戦線(BN)から、マハティール氏が率いる希望連盟に政権交代した。行政の混乱から伐採許可などが凍結・遅延し、現地工場が稼働できない状態となり、急遽サン・ボデーでも直輸入を再開して、インドネシアから材料を仕入れ、自社工場で製造・加工する体制で急場を凌いだ。アピトンはじめ南洋材価格が急騰し、その後も政治混乱は続いたものの、現地からの供給は正常化した。
インドネシアからの仕入れを再開した。
2018年10月29日
輸入窓口である妙見島製材株式会社が、一般社団法人東京都木材団体連合会 合法木材供給事業者認定「都木連300号」を取得、クリーンウッド法に対応した仕組みが整った。
2019年5月30日
品質マネジメントシステムISO9001:2015を取得、登録の範囲は「トラックの荷台に使用される木材の製造」
株式会社サン・ボデーは、「常により良いものをめざし、変革していきます」